園長の独り言
子育ち・子育て
最初の改革
2010-09-28
私が就職した同じ年に就任した新園長を中心に改革に着手しました。まず最初に、先述した100以上もある規則を見直しました。子どもだけが守らなければならないものやおとなの都合だけで作られたと考えられるものを廃除したら、全部なくなってしまいました。しかし、他人同士が安心して共同生活していくために、おとなも子どもも一緒に守らなければならないことがあるはずだと話し合った結果『強い立場の者が弱い立場の者を侵さない』ということだけが決まりました。これを湘南憲法と定め、次の日から全ての規則を廃止した「たった一条の湘南憲法」のもとでの新しい生活を開始しました。
一度に100以上もあった規則をなくした生活は、しばらくの間、混乱を極めました。学校から帰ってきた子どもたちは、かばんを置くなり出かけていきます。夕食の時間になっても全員が揃うことはありません。子どもたちの部屋は、何時になっても灯りが点ったままです。思い思いに犬や猫を拾ってきて飼いだします。私も何度元の規則尽くめの生活に戻したいと思ったか知れません。しかし、おとなたちは葛藤しながらも、その一つ一つの出来事に根気強く対応していきました。夜9時を過ぎても帰ってこない子どもたちは見つけるまで捜しました。増えすぎた犬をどうするかについて「小犬の裁判」を開廷して子どもたちと納得するまで議論しました。そして、約2年が過ぎたころから徐々に子どもたちに変化が現れてきたのです。小さい子どもの面倒を見る中学生の姿を見かけるようになりました。おとなの前ではいつもおどおどしていた子どもが笑顔を交わすようになってきました。シンナー遊びをする子どもがなくなり、喫煙も全くなくなったわけではありませんが、確実に少なくなりました。
湘南学園との出会い
2010-09-27
琵琶湖の畔、滋賀県大津市にある湘南学園は、1904(明治37)年に曹洞宗の僧侶であった西尾関仲師が、日露戦争の戦災孤児や交通遺児など家庭環境に恵まれなかった子どもたちを救済する目的で創設した社会福祉法人です。創設当初は、「三井の晩鐘」で知られる三井寺の境内を借りてのスタートでしたが、1936(昭和11)年に大津市平津の現在地に移転して70年余り経ちます。現在は、児童養護施設・保育所・知的障害者授産施設(通所)の異種の3施設を同一敷地内で運営しています。また「湘南」という名称は、創始者西尾関仲師の「号」であり、神奈川県相模湾沿岸の湘南海岸とは湖の南に位置するという共通点以外の関係はありません。
私が湘南学園に就職したのは、1982(昭和57)年。当時は児童養護施設だけを運営しており、男女別の寮で生活する大舎制の形態でした。同年代の5人から10人の子どもたちが一室で寝起きし、チャイムの合図で行動していました。朝食の時間を告げるチャイムが鳴ると一斉に別棟の食堂へ移動し、一律に盛り付けられた食事を、その日の体調や気分とは無関係に食べる。もちろん食べ残しは許されません。そして次のチャイムが鳴ると登校するといった具合です。また、子どもたちだけが守らなければならない規則が100以上もあり、規則さえ守っていれば「よい子」と評価され、自立(律)心が育たない環境での生活を強いられていました。暴力・喫煙・シンナー・無断外出等々、子どもたちはこのようなかたちでしか自己主張することが出来ません。さらに、子ども社会の中での力関係が確立していて、小さい子どもや力の弱い子どもたちは、いつもいじめの対象になり、生きていく力さえ奪われかねない状況だったといっても過言ではありません。